「名作」と聞くと、どこか難しそうで身構えてしまうことはありませんか?
『羅生門』や『坊っちゃん』といった小説だけでなく、
『桃太郎』や『竹取物語』のような昔話、さらには日本各地に伝わる逸話の数々。
これらは、教科書や昔話集で目にしたことがあっても、
内容がなかなか頭に入ってこない、そんな経験を持つ人も多いのではないでしょうか。
それもそのはず。
これらの作品が生まれた背景には、今とは異なる時代の価値観や表現、
独特の暮らしぶりが色濃く反映されているからです。
なんとなく意味は分かっても、
登場人物の行動や物語の展開に現代とは違う違和感を覚えることもあるでしょう。
そこで、このブログでは「過去の名作を令和風に変えてみた」と題し、
名作の数々を現代に置き換えて紹介していきます。
小説、昔話、逸話──それぞれの物語を、
現代の若者や家族、日常生活を舞台にしながら、新しい視点で楽しんでみませんか?
名作が持つテーマの普遍性は、いつの時代も色あせることがありません。
令和の時代に響く新たな形で、
名作の奥深さと楽しさを一緒に再発見していきましょう!
吾輩は猫であるのあらすじ(原作)
『吾輩は猫である』は、名前のない一匹の猫の視点から、人間社会を皮肉たっぷりに描いた夏目漱石のユーモア小説です。
猫は、ある家に拾われ、そこに住む主人「苦沙弥(くしゃみ)先生」とその家族、そして先生の友人たちを観察しながら、人間社会の滑稽さや矛盾を語ります。
猫は人間たちの見栄っ張りや無意味な議論、愚かな行動を冷静かつ辛辣に批評します。
一方で、自分の居場所を見つけながらも自由を求める猫の姿が描かれています。
物語は淡々と日常を綴る形で進みますが、最後は猫が水瓶に落ち、その後の運命は描かれないまま幕を閉じます。
このあいまいな結末は、猫という存在の儚さや人生の無常を象徴しています。
令和版『吾輩は猫である』
俺は猫である。名前はまだない。
正直、名前なんて必要ないだろ?
人間だって誰もが特別な名前を持っているわけじゃない。
例えば俺の飼い主――久志なんて、ネットで検索すれば50人以上出てくるような名前だ。
けれど、彼自身は「唯一無二」を気取っているから滑稽だ。
俺はある日、マンションのゴミ捨て場で拾われた。
空腹でヘロヘロだった俺を助けた久志は、インスタのストーリーに「#保護猫ライフ」「#癒しの時間」とかタグをつけて俺をアップした。
その数時間後、フォロワーが増えたことに満足して「猫も映えるアカウントなら俺のライターとしての仕事も増えるかもな」と呟いたのを俺はしっかり聞いている。
久志のマンションは駅近だが、築20年の微妙な建物だ。
部屋は狭く、窓からの景色は隣の建物の外壁のみ。
それでも彼は「俺は自由に生きてるんだ」とよく言う。
自由というのは、月々の家賃や電気代に追われながらUber Eatsの割引クーポンを探す生活のことらしい。
一方で、久志はSNSでは常にキラキラしている。
「朝日を浴びる俺の猫」と題して俺の写真をアップしたり、「ノマドワーカーはいつでもどこでも仕事できる」と言ってカフェの写真を載せたりする。
だが、現実は家のソファに座り、古いスウェットを着て缶ビールを片手にスマホをいじっているだけだ。
俺が観察している限り、久志は3種類の人間と関わっている。
一人目は、隣の部屋に住む美緒。
彼女はOLで、朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくる。
ときどき廊下で会うと、久志は妙に張り切って「最近どう?」なんて声をかけるが、美緒は適当に「まあまあです」と流している。
久志は「あの笑顔、俺に気があるんじゃないか?」と一人で盛り上がっているが、猫の俺から見れば完全に勘違いだ。
二人目は、大学時代からの友人でサブカル好きの輝(あきら)。
彼はフリーターでシェアハウスに住んでいる。
たまに久志の家に来ては、「俺たちって、自由すぎて逆に時代に合わないよな」とか「SNSのフォロワーってさ、結局自分の鏡なんだよ」とわけのわからない話をして帰る。
俺は彼の長話を聞きながら、「無駄な毛づくろいでもしてた方が有意義だな」と思う。
三人目は、美緒の友人らしい若い女性。
久志が一度彼女たちを部屋に招いたとき、俺はただ物陰から観察していた。
彼女たちの笑い声に混じる久志の空回りした冗談が痛々しかったからだ。
SNSに映える俺と映らない久志
久志はSNSに俺を登場させるたびに、フォロワーが増えたことに満足して「いいね」を眺めている。
人間というのは面白い。
自分が映えないことを知っているから、猫やカフェの風景を利用して自分を誇示しようとするのだ。
俺はその様子を冷静に見ながら、こう思う。
「俺が映えるのは、ただ俺が猫だからだ。何もしなくても猫は美しい。だが、人間はどうだ?必死にフィルターを重ねて、それでもなお物足りない顔をしている。」
ある日、久志がため息をつきながらこう言った。
「最近エンゲージメントが下がってるんだよな。もっとインパクトある投稿しないと。」
俺はソファの上で丸まりながら、「お前のエンゲージメントは俺のおかげだろ」と心の中で呟いた。
家庭の中の矛盾
隣人の美緒というOLが久志の家によく来る。
久志は「猫好き女子に人気のある俺」を演出しようと、俺に高級キャットフードを出してきた。
「ほら、美緒ちゃん、この子めっちゃ気に入ってるみたいだよ」と久志が言う。
だが俺は、そのキャットフードに一切手を付けない。
普段から安いドライフードばかり食べさせておいて、急にこんな高級品を出されても困るんだよ。
美緒が笑いながら言った。
「久志さん、猫よりもまず自分のご飯をちゃんとしたら?」
俺は美緒に一票だ。
輝のバズり大作戦
輝という男が、よく久志の部屋にやってくる。
彼はシェアハウスに住むフリーターで、自称「クリエイティブ系ノマド」。
その実態は、仕事のない日にはSNSでバズりそうなアイデアを考えるのが趣味らしい。
ある日、輝は目を輝かせてこんなことを言い出した。
「久志、聞いてくれ。次は絶対にバズる。スーパーのカートに乗って全力で滑り降りる動画を撮るんだ!」
久志は眉をひそめ、「それ、迷惑系だろ」と言ったが、輝はこう返した。
「迷惑だろうとなんだろうと、バズれば勝ちだよ。」
俺はその会話を聞いて、飽きれて尻尾を振る。
「人間は、自分で作ったルールを破ってまでも注目を浴びたいのか?猫なら、そんな無駄なエネルギーは使わない。」
数日後、久志がスマホを見ながら顔をしかめていた。
「輝、捕まったらしいよ……」
どうやら輝はスーパーでカートを暴走させ、店内の商品を次々になぎ倒した挙げ句、警察にお世話になったらしい。
動画は確かにバズったが、コメント欄は「これが大人のやることか」「ただの犯罪」と炎上していた。
久志はそのニュースを見て呟いた。「やっぱりバズるだけじゃ意味ないよな……」
俺は隅っこで伸びをしながら思った。
「人間というのは本当に面白い生き物だ。自分で自分の首を絞める方法を考えつくとは。猫がネズミを追いかけて自分の尻尾を踏むことはないが、人間はそれをバズりと呼んで褒め称えるのだから驚きだ。」
新しい猫、エンジェル
ある日、久志が新しい子猫を連れて帰ってきた。
真っ白な毛並みに青い瞳、その名も「エンジェル」。
久志は早速インスタに「新しい家族が増えました」と投稿し、いいねの数が急増した。
俺はソファの端っこからその様子を眺めていた。
「やれやれ、俺がいなくても何とかなるってわけだ。」
その夜、久志が俺を抱き上げて言った。
「ごめんな、最近はエンジェルの方が人気でさ……でも、お前には感謝してるんだ。」
俺は何も言わずに窓の外を見つめた。
久志は俺をマンションの近くの公園にそっと置き去りにした。
足元には高級キャットフードが一つだけ残されていた。
猫の最後の独白
俺はベンチの上で丸くなりながら、久志の家の明かりを遠くから見つめていた。
窓辺には、エンジェルが楽しそうにじゃれる姿が見える。
久志はスマホを手に、その様子を撮影している。
「俺は猫である。名前もないままだった。だが、それでいい。人間は名前をつけることで何かを所有した気になるが、それはただの錯覚だ。俺は自由だ。次はどんな人間と出会うだろうか。きっと、また似たような滑稽さを見せてくれるに違いない。」
俺は公園のベンチから立ち上がり、静かに歩き出した。
令和版『吾輩は猫である』とは
令和版『吾輩は猫である』は、現代のマンションで暮らす一匹の猫が、人間社会の矛盾やSNS依存、見栄っ張りな日常を皮肉たっぷりに語る物語です。
飼い主の久志やその友人たちの愚かな行動を観察しながら、猫は冷静かつ辛辣に批評します。
SNS映えやバズりを追求する人間の姿を描きつつ、最後は猫が飼い主に見放され、自由を求めて歩き出します。
伝統と現代を融合したユーモアな作品です。
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