「もし〇〇だったら、私たちの暮らしはどう変わるのだろう?」
普段は当たり前に受け入れている現実も、一歩視点を変えれば、まったく違った世界が広がるかもしれません。
実はこのテーマの着想は、かつて話題となった小説『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』がきっかけでした。
「もし」を軸に、現実とフィクションの境界を探り、新しい視点で物事を考える楽しさを知ったのです。
仮想のシナリオをもとに、現実との違いやそのメリット・デメリットを探り、少しだけ未来や歴史に思いを馳せてみましょう。
この記事を読み終えたとき、きっとあなたも「現実の今」を少し違った目で見られるようになるはずです。
もし、人間失格の大庭葉蔵が『嫌われる勇気』を読んだら
『人間失格』の主人公、大庭葉蔵。彼は幼少期から「人間が怖い」と感じ、他者と本当の意味で通じ合うことを諦め、ついには「人間失格」として自分を定義してしまいました。彼の生き方は破滅的で、救いのない道に見えるかもしれません。
一方で、『嫌われる勇気』で有名なアドラー心理学は「人は過去の原因ではなく未来の目的で行動する」という思想を軸に、自己肯定や他者貢献を通じて人生を豊かに生きる方法を説いています。この思想が葉蔵にとってどのような影響を与えるのか、あるいは与えなかったのかを考えてみると、現代の私たちにとってのヒントが見えてくるかもしれません。
アドラー心理学とは?
アドラー心理学の特徴は、以下の3つの柱にあります:
- トラウマ否定
人は過去の出来事に縛られるのではなく、それをどう解釈して未来をどう生きるかで変わることができる。 - 課題の分離
他者の反応や評価は「他人の課題」であり、それに囚われずに「自分の課題」に集中する。 - 他者貢献
人間は他者に貢献することで、自分の価値を実感し、人生の意味を見出すことができる。
これらの視点をもとに、葉蔵の生き方を考察してみましょう。
葉蔵とアドラー心理学の出会い
1. トラウマ否定と葉蔵の「人間失格」
葉蔵は幼少期から「人が怖い」「自分は普通の人間ではない」という感覚を持ち、それを彼の「人間失格」という自己認識の基盤にしました。アドラー心理学が言うように、過去の出来事や環境が現在の自分を決定するのではなく、それをどう解釈するかで未来を選べるとしたら、彼はどう感じたでしょうか?
可能性:解釈の転換
アドラー心理学を受け入れた場合、葉蔵は過去の孤独や恐怖を「自分が他者を理解し、つながりを求めるための糧」として再解釈し、未来の行動に結びつけられたかもしれません。
しかし…
葉蔵の深い自己否定感と「人間失格」というラベルへの執着は、それ自体が彼のアイデンティティとなっており、そこから抜け出すことを恐れていたとも考えられます。アドラー心理学を読んだとしても、それを受け入れること自体が彼にとっての「恐怖」となり、彼はその恐怖から逃げてしまう可能性が高いと言えるでしょう。
2. 課題の分離と葉蔵の他者への恐れ
葉蔵は他者の目を極端に気にし、自分が「道化」として振る舞うことで受け入れられることを選びました。アドラー心理学の「課題の分離」は、他人の評価は他人の課題であり、自分が背負う必要はないと説きます。
可能性:他者の評価から自由になる
葉蔵がこの考えを受け入れたとしたら、彼は「自分はどう生きたいのか」を考え、他人に受け入れられるための仮面を外し、本当の自分として生きる道を模索したかもしれません。
しかし…
葉蔵は他者の目に過剰に依存していたからこそ生き延びていた部分もあります。他者から見放されることは、彼にとって「死」を意味するほどの恐怖だったため、「課題の分離」という考えに到達する前に、自ら孤独の中に沈んでいった可能性もあるでしょう。
3. 他者貢献と葉蔵の存在意義
アドラー心理学は「他者に貢献することが、自分の存在意義を見出す方法である」と説きます。葉蔵の人生にも、彼を助けようとする人々(特に女性たち)が登場しますが、彼は彼らの支えを受け入れることを拒み続けました。
可能性:貢献を通じた再生
もし葉蔵が「他者に貢献することで自分の価値を見出す」という考え方を受け入れたなら、彼の孤独感は少しずつ薄れていったかもしれません。例えば、自分と同じように孤独や苦しみを抱える人々に寄り添うことで、自分自身の存在意義を再発見した可能性があります。
しかし…
葉蔵は「自分は価値のない存在だ」という自己認識に強く固執していたため、他者のために何かをするという発想を持つこと自体が難しかったかもしれません。
善悪では語れない葉蔵とアドラー心理学
ここで重要なのは、「アドラー心理学が善であり、葉蔵がそれを受け入れられない悪」という単純な構図ではないということです。
葉蔵の選択は「逃げ」ではなく「生きる方法」だった
葉蔵の生き方は、彼にとっての「最善の選択」だったと考えられます。彼は「人間失格」という自己定義を通じて、社会の期待やプレッシャーから解放される道を選びました。それが結果として破滅的に見えたとしても、それは彼の生存戦略だったのです。
アドラー心理学を受け入れることもまた一つの選択
アドラー心理学は確かに多くの人に「生きるヒント」を与える強力な思想です。しかし、それが万人にとって正解であるとは限りません。「変わる意志」を持つ人にとっては有効でも、葉蔵のように変わること自体を恐れる人にとっては、その思想自体が受け入れがたい場合もあるのです。
結論:葉蔵と私たちが問いかけられること
大庭葉蔵がアドラー心理学を読んだとしても、彼が変わったかどうかはわかりません。しかし、彼の生き方もまた一つの人間の在り方として尊重されるべきです。
私たちが『人間失格』を通じて問いかけられるのは、「孤独や自己否定にどう向き合うか」という普遍的なテーマです。そして、アドラー心理学はその問いに対する一つの答えを示しているに過ぎません。
葉蔵の生き方を否定するのではなく、それを理解しようとすることで、私たち自身の生き方を考えるきっかけになるのではないでしょうか?
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